2021年12月7日 信仰の耐えられない軽さ


 昔から人は言う。次の話題は避けるべし


1.政治 2.野球 3.宗教


政治の話は、各論と総論と個人的な感想・感情が入り混じり、たいていが訳の分からないところに落下する。

酒を飲んでたりすると一層ひどくなる。

何度も経験したことのあるトピック。


野球は、話す人個人の思い入れしかなく、結局は他人のしていることなので、私的には興味なし。


宗教は、もちろんあえて避けてきた話題である。

個人的な思想信条は、まったく個人の自由であり、それに関して他人がとやかく言う筋合いはないと思う。

その一方で、宗教的価値観の対立のため、いさかいや紛争といったことが、世界中で起こっていることも事実である。

自由であるがゆえに、対立しやすい要素を宗教の話題というものは内包していると考えている。


信仰のある人に対する偏見かもしれないが、そこに狡さや軽さを感じてしまう。

もちろん、ずるい人や軽い人がいるだけで、信仰のある人がそうだと言うつもりはない。

最後は神様を持ち出す狡さと軽さ、これには本当に辟易する。

また、宗教にはパラドックス的な狡猾さもある。

神様=全知全能。

ゆえにすべては神様の計画通りに、思いの通りに出来ている。


「神様なんていない」と思った、そこのあなた、あなたのその思考すら、全知全能の神様によって、そう思うように作られているのです!

そう言われると、論理的な話し合いなどできようがなくなる。


昨日の夜、義母の高田永子は言った。

「神様にお祈りをして、ここまでうまくいっているから」

その言葉を聞いた時、感情の高ぶりを覚えた私は、うまく言い返すことができなかった。

今思い返すと「やられた」というのが、第一感だったと思う。

そうか、そう言い返したか、信仰を持ち出してきたのか。

そう言われてしまえば、話はそれでおしまいである。

はい、論破。

C(わたし)に返す言葉はない。

しかし、上述の通り、神の定義によるところのロジックであり、そのロジックは現実世界の科学的な論理性、再現可能性などに基づいているものとは違う。

だから、しばらく後、布団の中でこうも考えていた。

「やってしまった」な、と。

高田永子は言ってはいけないことを言ってしまった、と私は考えていた。

「神様にお祈りをして…」これは、本人とっては、切り札で、さすがの私も確かにたじろいだ。

しかし、同時に諸刃の剣であることも事実なのだ。

おそらく本人も深層ではわかっていたのだろう。

だから、最後の最後、本当に切り札として私に切ったカードだったのだ。

ただ、夫の優に知られたくない一心だったのかもしれない。

高田永子の本音というか、根っこの部分は、篤い信仰心からくる絶大なる自己信頼だったのだ。

信じる者は救われる、アーメン。


今日は、Xデー。

消費生活センターの予約日だ。

朝、子どもたちを保育園へと送り届け、私が家に戻ると、義父の優はデイサービスへと向かう車に乗ろうとしていた。

永子の背後から自分の両手を永子の肩におき、よちよち歩きで車まで歩く優。

仲の良い老夫婦が電車ごっこをしているように見えてもおかしくない、ほのぼのとした朝の光景。ゴートゥーデイサービス。


子どもを保育園に送り、優をデイへと見送る、もう、朝のやるべきことは終わった。

時計を見ると9時を少しだけ過ぎたところ、これが本当に最後の最後、私は義母の永子に声をかけた。


「お義母さん、昨日の気持ちは変わりませんか?」

「うん」

「わかりました。それじゃ、今から市役所に電話するので、挨拶だけでいいので、担当の人と話をしてもらえませんか?」

「まぁ」渋い顔をするが、まぁ、それくらいなら、といったところだ。


私は、スピーカーの状態で消費生活センターに電話をし、担当の日暮里さんを呼び出してもらった。

「やはり、義母は行かないということなので、せめてご挨拶だけでもと思い、今、隣にいてスピーカーで話していますので、ちょっと代わりますね」


日暮里さんと義母の会話は推して知るべしである。

せめてお話をしにいらっしゃいませんか?と日暮里さん。

話すことはないし、うまくいっているから大丈夫だ、と義母。

初対面?同士の柔らかだが、かたくなな態度での応酬。

やれやれ、押し問答をしても埒が明かないので、日暮里さんにお礼とキャンセルのお詫びをし、電話を切った。


私は玄関の柱につけられた電話配線のコネクターの上にある細い線をはさみで切り、電話機を抱えて義母に手渡した。


「こそこそ陰で話をしてないで、神様のもとで堂々と話をしてください」


高田永子は、しばらく前、上野が再度来始めたころ?自分たちの部屋から、わざわざ玄関先に電話機を移したのだ。

それはもちろん、夫の優に電話の内容を聞かれないようにするため。

そうでなければ、これから冬が来るというのに、寒がりでめんどくさがり屋の永子が、どうしてわざわざ寒い玄関先に電話機を移す必要があるのだろうか、いやあるまい。


「お義母さん」私は義母の手にある諸刃の剣を奪い取り、義母に斬りかかった。

「お義母さんは神様に祈ってうまくいっているからって言いましたけどね。借金完済の手続きをしたのはどこの誰ですか?ナンタラ信金の50万、クレディナンタラの20万、ベルナンタラの20万、あの借金のお金を出したのは誰ですか?娘たちですよ。その手続きをしたのは、誰ですか?神様ですか?全部私ですよ!やったのは神様じゃなくて、わ・た・し!」


空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 新約聖書 マタイの福音書 6章26


お義母さんがお祈りしている神様が真実の神様であることを、私はお祈りしております。


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