夜ではないが、まだ朝と呼ぶには早すぎる早暁、おそらく5時。
家の電話が鳴って、しばらくして留守電に切り替わった。
真夜中に鳴る電話は、およそ吉報をもたらさない。
誰か身内が事故や事件に巻き込まれたか、遠くない姻戚関係の誰かがこの世を去った時くらいだ。
良い情報や少しだけ悪い情報は、少なくとも早朝やって来ない。
社会常識のある人ならば、7時以降、少なくとも6時を回るまで電話などしない。
初めの電話から、間もなく、すぐに2度目、3度目の電話が鳴った。
その都度、留守電に切り替わり、話者はおそらくメッセージを残さないまま、電話を切った。
初めにかかってきた5時の電話で、安眠を遮られ、その後の何度かの電話で完全に眠りから覚めた。
何度目かの電話で、やっと下の階の者が電話を取った。
おそらく義母の高田永子だろう。
完全に眠りを妨げられた私は、静かに階段を降りた。
「何かあったのですか?」
「今から来る、って」と義母の永子は言う。
「?」
「上野さんが、そこまで来ているって」
やれやれ、私は心底うんざりした。
朝の5時に電話で叩き起こされたと思ったら、その電話の主は上野の婆さんで、しかも今から来るって?
「Cさんと話がしたいって」
やれやれ、99%金の普請にしか来ない婆さんが、いったい早朝の5時30分に何をしに来るっていうのさ。
まあいいさ、乗りかかった泥舟さ、行くところまで行きましょうと私は心の中でつぶやいた。
玄関の戸を開け、外に出ると、もう上野の婆さんはやって来ていた。
車から降りようとする上野の婆さんを制止し、「お金を返しに来てくれたのですか?」と私は尋ねた。
どんな酔狂な人が、朝の5時に借りた金を返しにやってくるというのか。
「もうダメです」と上野は言った。
「?」上野明美はこの日、金を貸して、とは言わなかった。
「お金が用意できないので、もう、ダメみたいです。すみません、ごめんなさい」彼女の中では、まだ案件は進行していたようだ。
「それはこっちにはどうでもいいことですよ。こちらとしては借金を返してもらいたいだけですから。投資案件が駄目でも、働いてお金を稼いで、借金返せるでしょ?」
「ダメなんです」
「パートでもなんでもして、毎月、1万でも2万でも返してくださいよ」
「高田さんだけじゃなくて、他にもたくさん借りてるので、ダメなんです。お金を用立てて、今やってることがうまくいかないと返せないんです」
「でも、お金が集まらないから、先に進められないんでしょ?」
「そうなのよ」
「あなた、半年前にも、『今月お金を集めれば、来月にはまとまったお金が入ってくる』って言ってましたよね?半年前と変わってないじゃないですか」
「でも、今月、お金があれば、来月には…」
「でも、じゃねえよ」
私は70を過ぎた婆さんとの堂々巡りに心底うんざりした。
しかも、時計の針はまだ6時前だ。
「お金は出さないし、会う時はお金を返す時にしてくれって言ってるでしょ」私はキツめに言った。
「わかりました。」何がわかったのかは、私にはわからなかったが、上野は居直って言った。
「それなら、本当にもうダメなので、もう終わりです」
「お金を返せないってことですか?」
「そうなってしまうかもしれません」まるで私が悪いかのような上野の開き直った態度。
これ以上話しをしても埒があかないと判断したのか、上野の婆さんはゆっくりと車をバックさせた。
「まあ、せいぜい死なないように、頑張って生きてください」と、私は上野に声をかけた。
これが最期かもしれないので、極力気を遣ったつもりだった。
それから、2週間くらい経った頃、上野はまたやって来た。
「お金貸してもらえませんか、高田さんしか頼る人がいないのよ」
「あなたが来る時は、お金を借りる時ではなくて、返す時でしょ?」私は半ばあきれ、半ば安堵して、いつものセリフを口にした。
「もうみんなから借りて、他には借りられる人がいないのよ、高田さんだけしかいないのよ」
「貸せる訳ないでしょ?あなた、今まで一銭だって返したことないのに、よくもまあ、そんなこと言えますね」
「だってえ」
70を過ぎた婆さんに「だってえ」と甘い言葉をかけられるとは、人生長く生きると色々なことがあるものだ。
「だって、じゃないでしょ。今まで、1000円でも、2000円でも返してくれてれば、少しは聞く耳も持ちますけど、あなた今までお金を全く返してないんですよ、ゼロです、ゼロ」
「でも、今回、お金を渡さないと今までのお金も戻って来なくなるし、お金さえ渡せば、来月にはまとまったお金を入金してくれるって言うから」
「田端さんが?」
「そうよ」
やれやれだよ。
「でも、上野さん、先月、もうダメだって言ってたじゃないですか?あれどうなったんですか?」
「あれは、途中で止まってるんだけど、別が上手く行き始めているから、そっちで初めの分も充分に。高田さんのお金も、まとまって返ってくるから、ね」
「あなた、毎回同じことやられてるのわからないの?あなたのお金が入れば、もう少し用意して、と言われ、もし入らなくても、別の案件が次の月にはスタートする。あなたのお金の流れに沿って、シナリオを作り変えてる詐欺の手口でしょ」
「詐欺じゃない。これは詐欺じゃないの」
NGワード、詐欺。
これを出すと返って話が混乱する。が、言わずにはいれないときが、たまに来る。
「なんで詐欺じゃないと思うんですか?」私は上野に尋ねた。
「だって、詐欺じゃないって言ってるもん」
やれやれ、私は老け顔の小学生か、はたまた老婆に似た顔の猿と話をしているのだろうか。
どの世界に「そうです。ワタシが詐欺師です」と名乗る詐欺師がいるだろうか?
もしいたとしたら、それこそ変な詐欺師だ。
私が上野とまともに話せる時間は、せいぜい5分。
タイムリミットとなったので、話を適当に切り上げ、上野の婆さんにお帰りいただいた。
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