2021年12月6日 宗教はアヘン

 


夜、事務所での軽い事務仕事を終えて、家に帰る。

妻は頭痛がひどくて仕事を早退してきたとのこと。

今夜、お互いの子どもが寝てから、義妹のコダマとコダマの夫、私と妻、そして、義母の高田永子との5者会談を開こうと思っていた矢先、妻が早くも戦線離脱。

なんだかテンションが落ちてきた私は、義母に再確認してみた。


「明日、どうですか?」

「いや、行かなくていいよ」


答えはわかっているし、コダマとその夫が出てきたところで、事態は変わらないのだろう。

半ば嫌気の差し始めた私は、(本音は、ああ,めんどくさ)最後の切り札というか、最後通牒を突きつけた。


「私は良かれと思って行動してるんです。はっきり言えば、赤の他人のあなたのために、なんで私がこんなにわずらわされなくちゃいけないのか?こんなこと普通はやらないですよ。愛とか善意がなければ、こんなことできないでしょ?おたくの娘は何かしてますか?」

「まあ、それは」それはありだか迷惑だ、とでも言いたげな永子の顔だった。

「目の前に困っている人がいて、間違った道を歩いてるとして、その人を救ってあげるのが、真に神の愛であり、それが人としての本性でしょう。私にはお母さんがサタンにたぶらかされて、悪の道にさまよってるとしか見えないんですよ」

困ったような迷惑顔の義母。

「わかりました。もう、知りません。この件をお義父さんに言います。それでもいいなら、明日、行かなくても結構です。お母さんは、自分の神様を信じて、その道を進んでください」


高田家はクリスチャンホームである。

家族全員が洗礼を受けている。

私は、そんな家に婿に入っただけなので、ノンクリである。

しかし、無神論ではなく、どちらかというと信仰心はある方だと思う。

門外漢の私が信仰について云々するのは、おかしなことではある。

しかし、少々非論理的なことくらいは、リアルな議論の中では強引に押し通してしまう、それくらいの力量はあると自負している。


本当は自分は中立な立場で、なんなら義母の応援(論理的に正しければ)をしようと思っていたのだ。

永子は、義父には知られたくない、でも、訳の分からないところは行きたくないといった感じの顔色だった。

めんどくさがり屋の永子さん、面倒くさいから行きたくないという気持ちはわからないでもないが、なぜそれほどまでに意固地になるのかが、合点がいかない。


「これまでのこともあるし、私の顔を立てて、嫌なら10分で帰って来て構わないので、行くだけ行きましょう」

「行かない」こうなるとお互いに意固地合戦である。

「まぁ、朝まで考えてください。行かないという選択肢を選んだ場合、私はもう知りませんよ。高田家が壊れても知りませんからね。全力でお母さんのことをサタンから救い出しますからね」と私は言い放ち、義母から離れた。


もう、なるようにしかならいな、と思いながら、洗面所で歯を磨いて、自分の部屋に行こうとする私に義母が話しかけた。


「Cさん、私がそういうところに行かなくていいと思っている理由は、神様にお祈りをしているから。神様にお祈りをして、今のところうまくいっているのだから、そういうところに行く必要はないの」


信念や信仰に基づく行動は、その人にとっての正義である。

ゆえに揺るがないし、へこたれない。

私は、高田永子の芯の強さの本質を垣間見た気がし、愕然としなからも、どこか知的好奇心が刺激され、武者震いのような心の躍動を感じずにはいられなかった。



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