2025年10月26日 こんな時代だから、物語に没入させることで成り立つものがある

 

『イン・ザ・メガチャーチ』 朝井リョウ著

読売新聞の書評が、あまりにも秀逸だったので、思わず衝動買いしてしまった。

書評を参考に本を買うことはあるが、書評の文章・文体にほだされて、本を買うことなど今までなかった。

書評がまるで上野明美の状態を表しているようで、もしかしたら、上野は特別な状態ではなく、この時代にあるべくしてある、社会的な事象なのではと思ってしまった。

以下、書評を抜粋(>)。

評・長田育恵(劇作家・脚本家)

>後世の人が2025年がどんな時代だったか知りたければ、本作を読めばいい。

>情報化社会の中で際立つ孤独。

>生きづらさを抱えた個人がサバイブするための手段を求める切実さ。

>我に返らないように物語に没入していく心理。

>視野を狭め突き進む先に何があるのか。

>テーマは推し活などによって築かれる「ファンダム経済」


ファンダム経済とは、特定のコンテンツやブランドの熱狂的なファンが、自発的に形成する巨大な経済圏です。

インターネットやSNSの普及により、ファンはグッズ購入だけでなく、イベント参加や情報発信、クリエイターへの支援など、多様な「応援消費」や「体験消費」を通じて経済活動を行います。

これは単なる消費ではなく、ファンとクリエイター/企業が共に価値を創造する新しい関係性マーケティングの一形態です。

AI検索より


前に、上野の行為は「推し活」と変わらないではないか、と私は書いた。


合法的な経済活動だけでなく、詐欺活動においても、現代的な詐欺手法は、ファンダム経済化(ファンダム詐欺化)しているのだろう。



>「最も共感能力が高く、自他の境界が曖昧で、視野を狭めやすい気質のファン層を炙り出し、より先鋭化させる」

>「皆、自分を余らせたくないんです」という指摘


余らせたくない

この感覚は、私はよくわからない。

過不足なく、自分を生きられたら、それは素晴らしい人生だろう。

しかし、生き物としての「私」が、この世で過不足なく人生を全うすることなど不可能だと思っている。

生き物は、工業製品とは違うのだ。

上野もしきりに「余っている」分がもったいない、と主張した。

余ったら、余ったでいいではないか?

と、私などは思ってしまう。

余ることが、それほどいけないことなのだろうか?

この「余らせたくない」という気持ちは、今現在の時代性を表しているのだろう。



>コロナ禍を境に、生き方の正解も消えた。

>幸せの形はそれぞれと放り出された。

>そんな時、自分というリソースを使い切ることで不安感を拭い去れる。

>白い虚無に、心が焼かれる。

>主観ではやっと安らぎを得ていた己の姿が、他者の目に映るとどれほど<痛い>姿をしているか。

>この不透明な世界で、己は生存してもいいと肯定したかった。

>生きるために信じた。

>物語にすがった。

>懸命に没入した。

>一体どこが間違っていたというのか。


上野は、しきりに「自分のやってきたことが正しかった、ただそれを証明したいだけ」と口にしていた。

睡眠導入剤なしには眠れぬ夜を、物語にすがりつつ、それを信じる他なかった。

生きるために信じるしかなかった。

そして、物語に没入し、自らも物語の一部となった。

物語を否定するということは、自分自身をも否定することになる。

自己肯定のための物語の肯定…だから、この一連の案件は「詐欺じゃないの。詐欺だったら困るの」ということなのだろう。



タイムリミットまで、あと5日。


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